誕生日に喪服を買いに行く

41になりました

先日41歳になりました。40になったときにはいろいろ考えたんですが、今年は特に何もありません。
このくらいにあると、年の取り方が感覚的に遅くなっている感じがします。40と41に意味合いの差がほとんどないから、年による影響が感じられないです。次に感じるのは45か50か。

女装をしようと思った

単純に最近思っているんですが、女装をした方がいいなと。
今、女装ができる状態を維持しているという状況がもう長く続いているんですが、実際には女装をして写真を撮ったりしているわけでもなく、実際にはただナチュラルにわりと女性に見えるおっさんという状況が続いているわけです。
そして、これがいつまでも続くわけではなく、この状態には期限があるんだろうということは考えます。感覚値では、45くらいにはだいぶ見た目的な変化が顕著になってくるだろうと思うので、そのあたりが潮時なのかもしれないです。
そうなると、女装やるならもう今しかないんですよね。残り数年の女装人生をどう生きるか、というのは考え物です。

喪服を買いに行く

誕生日の少し前に妻の親族に不幸があり、ご時世もあり親族のみで葬儀を行うことになりました。
故人とはあったことはあるもののそれほど深いお付き合いがあったわけでもなかったので、葬儀に参列するのは控えようと思っていたのですが、子供に聞いたら行きたいというので参列することに。
きちんとした喪服を持っていなかったので、この機会に買いに行くべきだろうと思い、自分の誕生日に喪服を買いに行くということになりました。
長く生きていると生のイベントより死のイベントのほうが増えるんだろうなと思っているのですが、ちょうど今がトントンなのかなと感じる印象的なエピソードでした。

葬儀について

なくなってから葬儀までに1週間ほどかかったのは、検死をしていたのと葬儀場の空きの都合ということ。特に病気をしていたというわけでもなく、突然自宅で亡くなったので、事件性の確認やコロナの罹患などを確認する必要があったんでしょうか。結果、結局何もなかったんですが。
行くたびに思うのは、私は葬儀が苦手です。私の性格というか人間性の問題なんですが、それほど強い縁があるわけでない人からも、強い感情の影響を受けるので気持ちが沈みます。自分の葬儀の時には自分はいないんですが、どんな感じになるのかなということを考えました。
故人は結構癖の強い生き方をされており、俗っぽいところに影響を受けずご自身の思う道を全うしたと思うのですが、好きな歌をかけるパートで八代亜紀舟歌をチョイスされていたのが印象的でした。

表現方法と表現するもの

表現方法と表現するものの関係

【弾き語り】はいだしょうこ「涙そうそう」- BEGIN/夏川りみ(フル)〈公式〉【一五一会】

私はETV(注: NHK教育のことね)スキーなので歌のおねえさんの歌は好きで、はいだしょうこさんがいろんな歌を歌いこんでいくこのチャンネルは結構好きでよくみています。
ただ、どんなに好きでも、歌い方や声、もっと言ってしまうと、歌い手としての今までの歴史や経歴と、合う歌合わない歌というのはやっぱりあるなと思ってしまいます。
(そんな偉そうなことが言えるほどのものが私にないことは承知で)はいだしょうこさんについていうと、歌い方や声が健康的なので、歌が人間の暗さやマイナスな要素を多分に含む事象そのものをテーマとしている場合には映えないなあというのを感じるところ。
真逆の場合はたまにはまることもあるけど、大体のケースははまらないイメージを受けます。

ちなみに私のイメージする真逆の場合というのはこういうやつです。
はいだしょうこ「ひこうき雲」- 松任谷由実/荒井由実(フル)〈公式〉
歌の言葉尻は明るいけれど、表現しているテーマが暗い場合というか。こういうパターンは明るく歌うことでテーマが引き立つ。

ほかによく見てしまう歌い手さんとして、自衛隊の歌姫の鶫さんとか、いろんなイメージを背負って表現しているなあと思う次第。

表現者と表現するものの幅について

どんなレベルの表現者であれ、表現者は表現したいタイミングに表現したいものを表現したいと思いがちのところがあって、自由に表現できる土俵をよしとするところがあります。
ただ、実際に世の中に出られた表現者というのは大体色がついていることが多く、その後も継続的にその色の表現を続けることを求められる場合が多いのであろうと思います。

一つの方向のことを表現することに集中し、結果的にその方向への表現に秀でた人がその技術を、その方向のスペシャリストとして評価された結果、有名になっていくというのは、合理的なステップであるのだろうと考えられます。
いろんな方向の表現を並行で鍛えていくと、それぞれの方向にかけられる時間は分散して少なくなるので、結果的には世の中に出られる時期が遅くなるし、結果的に世の中に出られる前に辞めてしまったり辞めざるを得ない状況になってしまうのだろうと思います。

何が言いたいかというと

私はこういうことに気付くのに、結構な時間がかかったのですが、こういうことは早く気付いた方がいいことなので、誰かから習うのがいいと思うわけです。
その言葉の意味を本当にわかるのは自分の体験からしか来ないと思うのですが、字面だけでも習っておけばそこにたどり着くのは、少しは早くなるんじゃないかと思います。

そして、言ってしまえば私のブログに書いている話というのは、大体そういう内容です。 自分の中でかみ砕いてこなかったこまごまとしたことを、アウトプットすることで定着化する作業。

体が丈夫な人の調子の崩し方

基本的に体が丈夫

私は基本的に体が丈夫で、病気という病気はほとんどしないできました。
厳密にいうと、すごく小さい不具合や持病みたいのは(逆さまつげとか、花粉症とかそういうやつ)いくつかあるんですが、自分の生活を脅かすような大病というイベントは発生しないできました。 こればっかりは、健康に生まれたことや健康に育ったことに感謝で、ひとえに親の努力のたまものかと思っております。

加齢と病気

そんな私でしたが、30代後半になって健康診断でいくつかA判定以外の検査項目が突然現れるようになりました。
そのうちの一つは目の検診で、眼科への紹介状が出て検査した結果、軽い緑内障であると診断されて、治療を始めることになりました。

もう一つ、数か月に一回程度の頻度で、強いめまいで数日体が起こせなくなることが起こるようになりました。少しでも体を縦にすると吐くという症状。
最初のうちは運がよく、週末に発症して、一日だけ休んで火曜から出社、みたいなことができていたんですが、だんだんと仕事に影響が出るタイミングでかかることが出てきました。たまたま一番症状が重いタイミングで医者にかかることができたときにいろいろ検査をして、メニエール病と診断されました。
これは症状を出るタイミングがコントロールできないので、症状が出たら抑えるという対処療法を運用していく必要が出てきました。

私はこういった病気を拾うまでは、加齢による健康状態の変化を全く感じていませんでしたが、やはり年々病気にはかかりやすくなっているんじゃないかと思うようにはなりました。

体が丈夫な人がかかる病気

何の後ろ盾もない無責任な分析ではあるのですが、病気がちの人は早期に症状が発生するので、それほど悪いものをため込まないうちに休むことを強いられるので、短いスパンで悪いところを発散することが可能なのだと思うわけです。
それに比べ、体が丈夫だと思っている人はわりと無理が効くので、長い間悪いものをため込んだ後に変な病気にかかることがあるんじゃないかと。

準備はできないと思うのですが、体が丈夫で思い当たる節がある方は、そういうことが起こることもあると考えておいた方がよいかと思います。

自分のネタ帳を作る恥ずかしさについて

久しぶりに出勤した

緊急事態宣言が一旦落ち着いて、勤務先も出社していいことになったので、出社してみた。
弊社は基本在宅ワークだが、出社しないといけないタスクがあったら許可を取って出社できるというスタンス。
こういう事態ではIT系企業というのはつぶしが効いてよいです。

出社した結果

会社に行ったら自分のPCが起動しないという状況。
もともと自粛前からHDDの調子が悪い感じだったのだけれど、いざ自粛明けて再起動をかけてみたら、windowsのログイン画面までたどり着かないという。
動いていないかというとぎりぎり動いているんだけれど、まあ仕事にはなりません。
総務部でPCを早々に変えてもらえたので、セットアップでたくさん時間がとられて終わりました。

安定の運の悪さ

私は自分が運が悪い方だと思っています。正確には、今まで何とかなっているので最終的には運の良し悪しの帳尻はあっていると思っているが、細かく運が悪いことがたくさん降ってくる人生というイメージ。
私は理系な性分なので、基本的に運がいいとか悪いとかそういった根拠の薄い議論は信じていないものの、それをふまえても過去の経験から、自分の運はどうも悪いらしいという結論になっています。

うすうす感づいていたこと

でも具体的にどうというと、いい例があげられない。
自分のブランディングがうまい人というのは、こういったところで具体例をいくつか持っているイメージがあります。そこでエピソードまで交えて自分がその結論に至った流れが説明できるとその結論に説得力が出るし、何より何の共通点も持たない人との間で話のネタになるんだろうなと。
ただ、それができるということは、普段からそのエピソードを話してやろうとネタを用意しておくということなんですね。自分のネタ帳を作っているということ。
自分のエピソードを用意しておくなんてことは、私にとってはだいぶ恥ずかしい感じがして、はたして、みんな陰でそんな努力をしているのだろうかと思います。でも、やってるんでしょうね。えらい。

親になるために必要なことを考える

子供がのびのび育つということ

親の無知のせいで、子供が得られる可能性があった情報を得られないことで、子供の伸びしろが制限されるということを、人の親になって初めて気にするようになりました。
特に気にしているのは、幸福なことに子供が自分より優秀な育ち方をしたときに、自分の想像よりも先にあるものを自分が思いつかないことで、その可能性をつぶすことが十分ありうるなということ。
これは気を付ければ何とかなるという類の話ではないので、気にしすぎてもしょうがないんですが、それでも親がこれを意識できているかどうかで、それなりに子供の成長に違いは出てきそうです。

自分のことを考えると

私が都会の出身ではないので、それのことによって受けていた情報の制限というのはあったと思います。それと、特別裕福な家庭でもなかったので、裕福な家庭との格差というものもあったかと思います。
私は大学進学のために上京したのですが、そもそも大学に進学することが珍しい風土の出身で、それこそ大学受験勉強が始まるまで自分の進路なんて考えない日々を過ごしていたし、今思えばどんな大学があるのかもよく調べもしないまま受験先を選択したような気がします。 今私は東京に住んでいるので、私のように地理的な制約で情報が得られないことはないでしょうが、それ以外は親の影響を受けることは多いだろうと思います。

なんでこんな話をしているかというと

まだ幼稚園に入りたて(厳密にはコロナの影響でまだ登園できていない)の子供が、ご飯の時にyoutubeを見るんですが、好んで見ている動画がなぜか learn engineering 日本語映像授業 Try IT(トライイット) みたいな動画で、日常的にn型半導体がーとかツェナー効果がーとか言っているわけです。
別に勉強をしている意識はないだろうと思いつつも、そのまま興味を持って進んでいく可能性をつぶすような動きはしたくないなと思っているわけで。

この動画を見たとき、自分が大学に入る前とか、大学に入ってからとか、こんなこと全然考えなかったなーと思って、ただただ関心するんですが、

【保存版】東大生とハーバード大生が語る、進路を決める考え方。 (QuizKnock)

これを見ながら、無意識に囲まれている環境ってすごい影響力あるなーとも思うわけです。

現状の親のスペック

そこで、自分のスペックを見直してみると、そこそこの大学を出て(留年あり)大学院に行かず就職し、それほどまじめでない職歴(間に無職期間が4年あったり)で就職先が一流企業というわけでもなく、特に何の特徴もない親で、(女装しているので)見た目だけ少し珍しい感じなわけです。
いろんなことに対する偏見が少ない(と思っている)のは取り柄ですが、特別何かに導いていけるほどの能力も才能もないというのが現状でしょう。

これからの時代の情報

時代は変わってきていて、こういう話もあるみたいなので

YouTubeで勉強!?数検1級最年少合格者に会いに行った話 (ヨビノリ)

youtubeなどのメディアを利用すると、私の子供のころや学生のころと比べて、自分で集められる情報の種類や量が全然違うんだろうと思いますが、それが利用できることにいつ気付けるのかということに、やっぱり親の影響などはあるのだろうと思います。 親も勉強しないといけないんだなあと改めて考える次第です。

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ブログ紹介

このブログのタイトルはふつうの男の娘です。
タイトルの通り、ブログ主は女装の趣味があり、それがそれなりにアイデンティティの一部に組み込まれているような人物です。
ふつうの、とつけているのはその女装を自己表現の一部としていないうちの一人という意味でつけています。
この話はそのうちすると思うのでここで長くは書かないですが、女装をしている自分を、自分の売り込みの材料にしようとしていない、という意味です。

ブログは続かない

私がブログを立ち上げるのはもう何回目かわからない。
私くらいの年代の、あまり自分の情報発信に熱を入れていないけれど、技術的には気になるようなタイプの人間は、私と同じようにブログのような事故発信メディアを何回も消しては作り、続かなくて自然と立ち消えになり、少したってうまくメディアを利用できていないことが恥ずかしくなり消す、ということを繰り返しているはず。
私もその一人です。

このブログの意味は

私は自己紹介が苦手です。大学に入り、サークルの自己紹介の時に自分のことをしゃべっていて突然泣き出してしまい、逆に注目を集めたくらいには、自分のことをしゃべるのが苦手で、自分を掘り下げるようなことはあまり積極的に行ってきませんでした。
不惑を迎え、自分というものが全然ないことに少し恐怖を覚えてきました。40年も生きているのに、自分をしっかり持たず生きてきて、しかも人間は80年くらいでみんな死ぬらしいじゃないですか。
ある技術を本当に理解するには、それを人に教えるのがよい、という話もあるように、自分を掘り下げるには自分を語るのが一番の近道なのだろうと思い、性懲りもなくまたブログを始めることにしました。